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「はじめて教会へいらしたあなたに」カトリック教会の案内、ドン・ボスコ社より |
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だれでも教会に行ってもよいのですか |
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もちろん、遠慮なく教会へいらしてください。生きがいや神の救いを求めている方々のために、教会の門はいつも開かれています。教会に来ている人々は皆、あなたのように正しい道を求めています。教会は、皆のためのものです。なぜならば、人間は皆、神の子であるからです。若い人も年配の人も、元気な人もそうでない人も、すべての人は皆、神の子なのです。神は皆を愛しておられる方です。あなたも、神から愛されています。私たちは、毎週、日曜日になると教会に集まって、神を礼拝し、教えを聞くのです。どうぞ、私たちと一緒に神に祈り、教えを聞きに来てください。 |
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教会をはじめて訪ねたときは、どうしたらよいのですか |
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教会の入り口に案内する人がいれば、「はじめてです」とおっしゃってください。親切に案内してくださるでしょう。はじめはなにもわからなくてもいいのです。少しずつ、わかるようになるでしょう。まず、教会に入って、空いている席についてください。教会には、式の途中であっても、どなたでも自由に入れます。中に入ったら、周りの人と同じようにすればいいのです。人がすわるときときには自分もすわり、立つときには自分も立つというぐあいに。何よりも、早いうちに、教会の神父さまに自己紹介をなさることです。親切に迎えてくださいます。 |
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神父さまとは、どういう方ですか |
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神父さまは、教会の指導者、神の道を教える人です。ミサや他の礼拝を司式するので、「司祭」とも言われます。皆のために祈り、信者を導き、教えを説くのです。子どもも大人も、年配の方も、どなたでも気楽に神父さまに話し、いろいろな相談や悩みを打ち明けることができます。神父さまの住まいは、教会のそばにある「司祭館」です。自分のすべてを神と教会にささげていますので、カトリックの神父は結婚をしません。それは皆のお父さんになるためです。教会が大きければ、二人以上の司祭が仕事を分担しています。「主任司祭」の他に、「助任司祭」やその他の担当者がいます。また、イエスの教えを伝えるために、「宣教師」として外国から派遣された神父もいます。むずかしい日本語を覚えて、人々の救いのために命をささげている方々です。 |
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神に何を祈ればよいのですか |
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「苦しいときの神だのみ」ということばがあります。もちろん、困ったときに祈るのもよいでしょうが、祈りは、困ったときだけのものではありません。あなたは、どうしてこの世に生きているかを考えたことがあるでしょう。命、身体、毎日の糧、自然の恵みなどは、全部、ただでいただいたものです。どなたからいただいたのですか。どなたがこれらを造られたのでしょうか。 あなた自身やあなたが使用しているもの、すべてが神の恵みです。祈ることは、まず、「神に感謝する」ことです。あなたがいただいたすべての恵みのために、神に感謝してください。今ここにいること、健康であること、幸せであることを感謝してください。すべての物事に対して感謝の心を大事にすることは、古来より日本に伝わる精神文化です。また、祈ることは「神を賛美する」ことです。雄大な自然、、小鳥、花、子どもの素直さなど、すべての美しいものの中に、神の知恵と偉大さを感じとって、神を賛美してください。さらに、祈ることは「神にゆるしを願う」ことです。これほどの恵みを受けたにもかかわらず、神を忘れたり、自分勝手に振舞ったりしたことを思い出して、神におわびしましょう。最後に、祈ることは、謙虚な気持ちで「神にお願いする」ことです。あなたの悩みや必要なことを神のみこころにゆだねてください。神は、私達の幸せを望んでおられる方なのです。神はどこにでもおられる方です。すなわち、祈る場所はどこでも結構です。でも、教会の静かな雰囲気の中ならば、さらに落ち着いて祈ることができるでしょう。平日でも、教会があいているときは、ひとりで祈りに行ってもいいのです。神に祈ることによって、あなたの心は安らぎを見いだすでしょう。 |
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教会の中を説明してください |
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教会は、私たちがともに神に祈り、教えを聞く場所です。そのために、皆が一緒に集まれる広い場所となっています。入ってみると、正面に、教会の中心となる「祭壇」(さいだん)があります。式を司る(つかさどる)司祭は、この祭壇で皆の祈りを神にささげます。特に、教会のいちばん大事な祈りである「ミサ」を祭壇でささげます。祭壇のわきに「朗読台」があります。それは、聖書朗読や説教をするところです。また、祭壇に「十字架」が飾られていて、信者はそれに向かって敬意を表します。イエスが皆のために命をささげられたことを思い出すためです。両側の壁には「十字架の道行」(じゅうじかのみちゆき)の十四場面が飾られています。キリストのご受難(じゅなん)と復活(ふっかつ)の黙想をするためです。キリスト信者は、ご受難とご復活のことをしばしば思い起こします。また、教会には、マリアさまや他の「聖人のご像(ぞう)」が飾られています。キリストにならい、模範的に神の教えを実行した人たちを思い出すためです。もちろん、この方々は神ではありません。また、教会の中に洗礼(せんれい)を授ける場所もあります。「洗礼」とは、キリストに従って生きようとする人のための入信式です。よく準備した上で、自分から望む方々は洗礼を受けることができます。入口には水の入っている器があり、司祭の祈りで聖別(せいべつ)された「聖水」(せいすい)が入っています。教会に入るとき、手の先を聖水に浸して「十字架のしるし」を切る習慣があります。これは、神から心を清めていただきたいという気持ちを表すためです。私たちは、「教会」のことを「聖堂」(せいどう)と呼ぶこともあります。正しく言えば、本当の「教会」は建物ではなく、文字通り、「教えの会」です。教会建築の内部・外部の形は、教会から規定されていませんので、場所と時代によって、さまざまな様式の教会建築が見られます。 |
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日曜日の礼拝、「ミサ」とは何ですか |
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ミサとは、カトリック教会で行ういちばん大事な祈りです。日曜日の他に、平日、また、結婚式、葬儀などの大事なときにも行います。司祭が司式し、信者とともにミサをささげるのです。ミサの由来は、キリストの最後の晩餐(ばんさん)、イエスが死をむかえようとされたときにさかのぼります。そのとき、十字架の死を覚悟しておられたイエスは、食事の途中、パンとぶどう酒の杯(さかずき)を取り、弟子に与えて、こう言われました。「これはあなたがたのために渡される、わたしの体である。これは、わたしの血である。わたしのの記念としてこれを行いなさい」(ルカ22・19〜20)。 そのとき以来、教会はキリストが命じたとおりに最後の晩餐の式を繰り返してきました。それによってキリストの十字架上の死と復活とを記念し、私たちの救いのためにいのちをささげられたキリストに、心を合わせるのです。ミサのとき、私たちは、神からのすべての恵みのために感謝をささげることにしています。それで、ミサは「感謝の祭儀(さいぎ)とも呼ばれています。なお、このとき、私たちはキリストを記念するために、まず、その教えを聞きます。すなわち、ミサの前半には「聖書」が読まれ、「説教」が行われるのです。日曜日に読まれる聖書の箇所は、原則として、「旧約聖書」から一箇所と、「新約聖書」からイエスの「使徒たちの文書」と、「福音書」(ふくいんしょ)からのそれぞれ一箇所です。毎日曜日、どんな箇所が読まれるかは、全世界の教会のために決まっています。皆の便宜(べんぎ)のため、その日の聖書朗読を印刷したものが準備されていますので、教会の入口で「聖書と典礼」(せいしょとてんれい)というパンフレットをもらってください。 ミサの祈りの順序が書いてある小冊子(しょうさっし)もあります。それを使えば、すぐになれるでしょう。歌われる聖歌は、教会に「典礼聖歌」や「カトリック聖歌集」などが備えてありますので、教えてもらってください。ミサの途中、皆が立って祭壇に進み、「ご聖体」(ごせいたい)である白いパンをいただきます。そのとき、教会によっては、洗礼を受けてない方のために神父さまに神の祝福(しゅくふく)を祈ってもらう習慣もあります。お望みならば、列に並んで前に進み、頭を下げ、手を合わせたまま祝福をいただいてください。 |
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神とはどういう方ですか |
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神のことを知るためには、聖書の教えを読むのがいちばんよいでしょう。たとえば、パウロというキリストの弟子は、次のように説明しています。「神は、天地の主ですから、手で造った神殿(しんでん)などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。(中略)彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』、『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」(使徒言行録17・24〜25,27〜29) なお、イエスは、神が私たちを愛してくださる「天のおん父」であると教えています。イエスの弟子ヨハネも、「神は愛である」と言っているとおりです。 |
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